日本国内閣総理大臣への要望

        海外在住日本人グループからの一要望

2008年11月4日
日本国                          
麻生太郎総理大臣閣下

突然ながらこのようなお便りをさし上げますのは、先日の田母神俊雄航空自衛隊幕僚長の更迭に関して強い意見があるからです。

私達は米国ロサンゼルスで在住する日本人として、現在の日本国の現状を憂い、日本の将来を明るくし、子孫が支障なく世界で活躍できるようにするために、通常に知られている日本国と日本の近現代歴史、中でも戦前、戦中から東京裁判までの歴史を検討した結果判明する日本国との差異に注目し、より正しい日本国の知識を得るために勉強を行なっているサークルです。昨年の米国連邦議会における従軍慰安婦に関する非難決議、全米各所で上映された日本軍による南京大虐殺の多くのPR映画などを通じて、日常接するアメリカ人達の心底では、やはり日本は中国や米国を武力で制圧しようとした侵略性のある国家だと思われています。私達も戦後教育の一貫した教えによって、多くの人は日本国は戦争を仕掛けた侵略国家であると思っています。従って、上述の2点などが話題になりますと、当地在住のおおかたの日本人はひんしゅくの対象となり、反論の余地が無いのです。このような状況が続けば、日本人は未来永劫に世界で肩幅を広くして活躍することができないのです。このような状態は、日本の政府が今までのように日本国の第二次大戦における役割をあいまいにしておく限り、戦後60余年を経ても持続しています。其のことを、海外にいれば常に実感します。現在の世界の認識は、日本は悪事を働いた国家で、日本人は悪事を働いた人たちの子孫であるととらえています。

しかしながら、歴史の事実をまともに注視すればこのような認識が間違ったものであることが判明します。私達の研究から、田母神氏の論文の内容は史実に基づいた極めて正当な主張だと考えます。満州国建国から、太平洋戦争の終結までの日本国の行動は、他の西洋の列強の行動と比べると、それよりも悪質であったということは、言えません。しかし、東京裁判において展開された日本の姿が、戦後教育の根底となったので、殆どの日本人は洗脳されて、メヂアも多くの指導者も田母神氏の主張に違和感を感じるのです。第二次世界大戦の頃の事実については、この十年のうちに多くの新しい事実が解明されました。それらの発見は、田母神氏の主張を強力に裏付けることになりました。すなわち、日本は侵略国家であるとして責められるのは、ねれぎぬを着せられているのです。このことを明確に発表しない限り、日本はいつまでも犯罪国家に留まるのです。

田母神氏は職責を賭して、先に日本が行なった併合・割譲そして戦争の結果で敗北に喫した国だけが侵略国と言われれる悔しさは制服組を代表して意見の表明をしたのですが、海外から日本を見ている者も同感するところであります。村山談話で言われた「日本の植民地支配」は、奴隷や搾取を主目的とした西欧列強の植民地支配とは大いに異なり、インフラ整備、教育の普及、近代産業の育成などを通じて、国内同格の開発努力をした日本国の行政の特徴を全く無視しています。1930年代の中国では、西欧諸国に加えて、ソ連、米国も権益を確保しようとし、日本もその中に加わったのですが、米国やソ連の策略によって、日本は負け籤を引いたに過ぎません。

そこでお願いです。最近の歴史事実の発見はますます田母神論文の主張を支持する方向に進んでいます。従って、日本の侵略と植民地支配を謝罪する村山談話を真剣に再検討し、それに代わる別の歴史観を総理の在任中に発信していただきたいのです。その発言が、日本国民が自信を持って日本を真の独立国家として発展させる運動の起爆剤となる性格のものであることを切望しています。

駄文で長くなりました。総理には言わずもがなのことを申し上げました。ご寛恕ください。
これらの懸案も含めて、日本の戦後の自虐史観を振り切って、日本が本当に自主的な外交を開始するきっかけをつくることに、私達一同は誠心誠意協力して行きたいと考えています。

                                     恐々謹言

ロサンゼルス
日本再生研究会(南カリフォルニア)
理事長:目良浩一拝        

日台関係の展望

日本再生研究会 講演の紹介 
許世楷 (Koh Se-kai)(台湾前駐日代表)の講演 
「日台関係の展望から見る世界情勢」
2008年9月7日(日曜)、午後2時より、カリフォルニア・トランス、ホリデインホテルで、
担当:内藤喬生 (日本再生研究会会員)
前駐日台湾代表の許世楷氏の講演があった。再生会のメンバーも数名行っていたが、私に記録をおおせつかり、講演会の概略、それに講演会の内容についての私の感想も含めて書いてみた。
許世楷について
  許世楷を検索してみた。日本語では出てこない(台湾独立運動などを検索すると、恐らく日本の一般の人には知られていないのであろう。台湾前駐日代表、今は日本と台湾は国としての付き合いがない(経済・文化の付き合いはしている)ので、大使ではなく代表ということになる。私はロスで台湾コミニティーと少しは関係しているので、彼の名前は知っているし、今回を入れて、3回彼の講演を聞いている。過去2回は代表であったときであった。今回は辞めた後であった。
  まず、許世楷の略歴を講演会の主催者が用意した冊子から借用する。
許世楷(前駐日代表)
 1934年、7月7日、台湾彰化生まれ。国立台湾大学卒業後、早稲田大学政治学修士、東京大学法学博士。学術会での経歴は、津田塾大学での助教授、教授、学科主任を経て、現在、津田塾大学名誉教授。
*主な経歴
1972年  台湾独立建国連盟日本本部委員長
1987年  同総本部首席
1988年  津田塾大学国際関係学研究所委員長
1998年  同研究所所長
1992年  台湾の民主化とブラックリスト解除により帰国、その後総統府に    
       迎えられ、総統府人権諸問小組委員に就任
1994年  台湾文化学院院長
1998年  台湾憲政研究センター委員長。静宣大学教授、建国党主席(1         
999年退任)
主な著書
「日本政治裁判史緑」(共著)全5巻    1968-70年 第一法規出版
「日本統治下の台湾」 1972年 東京大学出版会
「国際関係論基礎研究」  1976年 福村出版
「台湾新憲法論」    1976年 前衛出版社(台湾)
「世界各国憲法選集」   1995年 前衛出版社
「台湾憲政基本問題」   1998年 前衛出版社
「台湾前途危機管理」   2001年 前衛出版社
この経歴並びに著書からも判るとおり、許世楷氏は憲法学者として日本でも広く知られ、特に「台湾新憲法論」は台湾での憲法論議の主流的な文献となっている。又、歴史学者としても大きな功績があり、「日本統治下の台湾」は、日台関係史研究家の間でバイブル的存在となっている。
盧千恵夫人も同伴され、少し話された。主催者側は彼女の略歴も配布していた。その中で台湾事情が判る箇所があるので、それをコピーする。
  1960年代から1970年代にかけて、台湾島内で蒋介石政権の台湾人に対する締め付けが厳しくなり、多くの台湾の前途に関心を持つ人々が逮捕され拷問を受けているというニュースを聞き、日本在住の台湾人女性を集め一緒に救援活動を始める。王育徳夫人、金美齢女史などと腸詰を作って売って資金を集め、小包、薬などを届けると同時に、アムネスティーの第七グループを結成して、多くの国々の人たちに台湾に目を向けさせる。
  1992年、国民党政権によるブラックリスト解除と同時に、許氏と共に33年ぶりに台湾に帰り、既に両親のいなくなった家で、両親が準備してくれた嫁入り道具を見る。・・・・・。
  彼女は御茶ノ水女子大学で、波多野完治の元で児童文学を専攻している。前回の主人の講演では彼女も話をされ、台湾の民話について語られた記憶がある。今回は、5分ほどの短い話であったが感動的であった。後に紹介する。
 前2回の講演では、蒋介石が台湾統治を始めてから、台湾人、特に日本をよく思っている台湾人への弾圧の歴史、その歴史の中で許氏がいかに翻弄されたかなどの劇的な話があった。民族が背負っている苦悩を彼自身も背負っておられるのだが、ふくよかな顔にはそのようなことを微塵にも見せておられなかった。流暢な日本語で、学者らしく論理明晰、それも質問に対して、適格な回答をなされていたことが印象的であった。
講演の主な要旨
 先日の台湾総統選挙の結果、馬英九が新総統になり、民進党から国民党政権に戻った。当然、陳水偏により任命された許世楷が辞めさせられることは予想されることであった。だから、今回の講演はこの辞任劇の裏側、それに前日本代表から見た台湾の新しい政治的流れに言及されることを期待した。
 最初、許世楷が代表をしていた当時の話であった。2005年、日本台湾双方からやって来る観光者がノービザで渡航できるようになった。国交を樹立していない国同士のノービザ達成には色々の難関はあったのだが、これにいちゃもんをつけたのが中国であった。中国は例えば30人北海道観光にやってきて、27人が行方不明(国外逃亡ということ)になる国柄で、ノービザなどはもってのほかである。ところが、国交がある国にビザが必要で、国交がない国にビザがなくても良いということに反発してきた。ノービザのメリットは金銭面、以前では台湾から日本にいく場合、ビザ習得のための手数料が2900元(1間35円)必要であったのが、ただであるのは旅行者にとって助かる。手続きがないことは金がいらないだけでなく、便利であることは言うまでもない。ノービザになれば人的交流が盛んになり、日台関係がよくなるのは見えている。許世楷が代表をしていた間、日台関係は最高に良い時代であったという。
  2004年12月、中国で「反国家分裂法」なるものが人民会議で可決され、台湾で緊張が走った。しかし、その内容は①台湾の独立は許さない。②内乱に対しては厳しく対処する。③外国の侵略にたいしても厳しく対処する。というようなもので、内容的には、以前の国家としての基本方針と変わりはない(反国家分裂法は新たな規定があるはずだが、そのことについて、私は分からない)。日本やアメリカが冷静に対応してくれたので、それほどの脅威にはならなかった。クリントン大統領はどちらかというと中国よりであるが、中台間の海に航空母艦を送ってくれた。3月27日の総統選挙の時でも、アメリカが中国の軍事介入の危険性を除去するような手立てもしてくれた。ライス国務長官は「台湾もアメリカとの関係を持っている」と明言し、噂ではあるが、アメリカは新総統馬英久に2つのNOを突きつけたという。一つ目はメモをしたのだが、自分のメモが解読できない。二つ目は、台湾の政治が中国の許可を必要とするような状況にもっていくなということである。馬英久というと、中国接近を考えている人で、前の陳水偏政権つまり民進党が政治理念ばかりに集中して経済政策が上手くいかなかったことに対して、経済を盛り上げるために登場した国民党期待の星である。中国も台湾からの農産物の関税無料化などを進めている。日米安全保障条約の規定の下、日米定期協議においても、日本とアメリカが台湾に対して、適切な対応をしていた。
  許世楷が代表の間、ノービザ達成だけでなく、日台がより友好を保つために色々な企画を実行した話もなされた。早稲田大学と台湾大学との交流。早稲田大学での台湾ウイークで台湾の伝統的な指人形劇(?)の実演、(劇の中のヒーローの名前が鞍馬天狗であったりして)、高砂族の音楽の紹介などが行なわれた。近頃日中共同研究とか日韓共同研究というのが行なわれるようなったが、「Aについては、同じ見解に到達しなかった」というようなことが多い。日本と台湾の共同研究では、仲が良かったことについての研究をしようということとなり、良い成果をあげている。
   馬英九は反日かということになると、今までの彼の言動からはそう判断できないところがある。彼はハーバード大学の卒業論文で尖閣列島について書いているが。彼は2回日本を訪問している。1年前の訪問では、「日本を重視する」と述べている。今年の5月、就任してから間なし、嘉南ダムを訪問している。嘉南ダムとは八田與一 が身命を賭けて完成させたダムで、不毛の土地を山にトンネルを掘ったりして造り上げた。灌漑水路の延べ距離は地球を半周するほどのものである。銅像があったのだが、蒋介石政権が銅像を破壊する恐れがあるので、農民は隠し、今では建っている。八田は金沢の出身で、彼の命日であろう5月何がしの日に式典が行なわれる。金沢から100人ほど毎年やってくるのだが、その式典に馬は出席している。
  その後、6月10日に重大な事件がおきた。台湾の釣り船が尖閣列島に接近し、日本の巡視艇がそれを阻止しようとして、船同士衝突はしなかったが、異常に近づくと小さい船が大きい船に引き寄せられる。結局漁船は沈没してしまった。16人は救出された。二人は軽症を負った。11日、13人が台湾に送り返えされ、12日、乗組員2人も送り返された。13日は船長だけ事情聴取のため送還されなかった。許世楷は船長も送り返してくれるように日本政府と交渉し、その日のうちに船長も送還された(?)。14日(土曜日)「帰国しろ」という電報を受け取った。電報には「大使召喚」とは書いていないので、ただの帰国命令と判断した。ところが外務省からのリークした情報によると大使召喚となっていたという。普通大使召還とは、その後に戦争となるケースがある。15日(日曜日)、2時間半、国会で事件の経過についての説明をした。質問は厳しく、そのようなことに慣れているので、それほどの大儀でもなかった。16日の新聞やテレビでは、許世楷が「裏切り者」であるようなことが報道されていた。ところで、この釣り船を扇動したのは県知事(どこの県かは言わなかった)の何がしという者である。彼は高砂義勇軍の記念行事に反対した男でもある。
   時間の経過が一寸不明だが、その後台湾の6隻漁船がまた尖閣列島に接近し、日本の巡視艇が警告したり放水したりして、戦争寸前にまでなった。18日には台湾国会では軍艦を送ることが要求されたが、馬は軍が出るのは行き過ぎだと制止した。そのような馬の態度に、「 熱烈青年はどこに行った」という批判が出たという。
   許世楷は6月の段階で辞表を決意し、新しい代表が来るまでは代表の仕事を続けていた。6月1日にはホテル大倉(?)で送別会をしてもらっている。阿部元首相も参加した。辞表を出した大きな理由は、「許の話を聞く前にすでに決定されている」という状況の中で、代表でいる意味がなくなってしまったからである。
  日本政府はこの事件に対して、「遺憾であった」という謝罪のコメントを台湾政府に送ったが、台湾では遺憾という言葉は謝罪を意味する言葉ではないと反発してきた。漢字は日本、台湾ともに使うのだが、ある漢字においては意味が違うことがある。日本では愛人というと妻以外の愛する女性ということになるが、大陸中国では夫や妻、つまり伴侶のことである。大陸では日本で言う愛人は情人を使う。台湾では大陸の使い方を知っているが、夫や妻を愛人とは言わず先生とか太太とか別の言葉や名前そのものを使う。この遺憾という言葉は嘗てライシャワー駐日アメリカ大使が日本の暴漢によって刺されたことがあったが、その時日本政府はこの遺憾という言葉を使った。別に問題はなかった。そのことは台湾政府も判っていたはずだが・・・。
  現在は西側の弁護士に任せている状態で、その後変わった変化は起きていない。
 最後に新しい日本代表、馮寄台について少し述べた。彼は小学から中学まで5年間日本の経験がある。ドミニカ大使を務め、次期アメリカ代表という下馬評が高かった人物である。馮は馬のアメリカのグリーカード取得問題で、馬と一緒(?)のところを写真に撮られている。馮は馬のプライベートなことも任されているところがあるのではないか。日本との外交の経験がないことと日本語の能力不足で、たとえ通訳がついているとはいえ、馬の意思を日本政府や日本人に上手く伝えることが出来るかどうか。日本代表の仕事は日台、対米との調整役である 。日本外交ゼロの彼の影響は今後大きくなるであろう。
盧千恵夫人の話
 大使とは大きな使いをする人のこと。国と国が仲良くなる親善大使の妻であることに努めてきた。女性の品格ではないが、Integrity(誠実),Intelligence(理知),Dignity(気品)を心がけてきた。アジア夫人友好会というのがあったのだが、友好会でありながら台湾人を参加させないのはどうかと、栗山まさ子(駐米大使夫人?)に抗議すると、理事会に諮ってくれ、参加できるようになった。小さい国を大事にする日本であってもらいたい。台湾での反日は表面上激しく動いているようだが、それはごく少数で、日本と仲良くしたい台湾の人たちは水面下で静かにゆったりとしている。
質疑応答での 許世楷の回答
① ブッシュ大統領が北京オリンピック開会式出席の少し前、アメリカは台湾への武器輸出を突然中止するということを言ったが、そのことに対する許世楷氏の見解をお願いしたい。
回答:潜水艦を入れて7項目、今は予算があれば買える状態である。ただF―16は、売ってくれない。台湾では短距離迎撃ミサイルや上海まで届く長距離ミサイルはあるが、馬は短距離迎撃ミサイルの開発を中止した。
④台湾の独立問題について見解を聞きたい。
回答(質問から大分離れ、中国事情について語ってきた):: 外交とは「生き続けることに努力すること」である。中国の人民会議などというのは選挙で選ばれた者の代表ではなく、いつも97%以上の賛成で決議される。中国は7000万人の共産党員で牛耳られている国である。以前は無産階級が共産党員になれたのであるが、近頃は有産階級もなれるようになった。党員が一番金持ちで、社会の平等などない。中国政府はなぜソ連共産党が崩壊したかを研究した。その結果、絶対に妥協しないことが大事であることに気づいた。歳が若いので民主的になるなどはありえない。革命を経験していない優等生が省などのトップに君臨している。胡錦濤は妥協しない男だ。軟禁状態にある(あるのかあったのか聞き取れなかった)胡耀邦は妥協したので失脚した。現在の中国政府は軍部を完全に掌握していない。軍人は戦争をするのを好み、中国の軍事費は毎年2桁増になっているが、実際はその3~5倍であろう。ソ連がアメリカとの軍事競争でつぶれたように中国もそうなるのか。中国の株価は半分になった。台湾は29%減である。馬は経済を旗印に総統になったが、かげりが見えてきている。馬は2016年、つまりもう一期やると自分の目標が実現できると近頃言ったが、台湾の人々の失望は隠せない。2009年に県知事の選挙が行なわれるが、そこで真価が問われる。独立とは台湾の人が中国に「行きたいか、行きたくないかの心の表れ」である。
私の感想
  今回の講演で馬英九の対日政策、それに台湾での彼への評価の変移が興味のあるとことであった。それに質疑応答での彼の回答は興味があったが、実は前2回は中国の事情、台湾がおかれている本質的な状況について語られた。それに比べると今回は迫力がなかった。現役を引退されていることや、今回の辞任劇の裏側というトピックスからすると仕方がなかったのかもしれない。私は台湾問題で一番知っておかなければいけないこととして、二・二八事件を挙げる。日本の人はあまり知っていないであろうから、その事件について、ウィキペディアから重要なところを抜粋する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二・二八事件(にいにいはちじけん)は、1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった大規模な本省人と外省人の抗争。約40年後、戒厳令の終了と政府側の遺族への謝罪により漸く終結した。本省人はこの事件を台湾大虐殺と呼んでいる。
1947年2月27日、台北市で闇タバコを販売していた本省人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。
背景
1945年に日本が敗戦した後の台湾には、大陸から蒋介石率いる中国国民党政府の官僚や軍人がやってきて行政を引き継いだ。
当初、少なからぬ本省人が台湾の「祖国復帰」を喜び、大陸から来た国民党政府の官僚や軍人らを港で歓迎したが、やがて彼らの腐敗の凄まじさに驚き、失望した。大陸から来た軍人・官僚は国共内戦の影響で質が悪く強姦・強盗・殺人を犯す者も多かったが、犯人が罰せられぬことがしばしばあり、もし罰せられる場合でも、犯人の省籍をマスコミ等で報じることは厳しく禁じられた。また、台湾の資材が中国人官僚らによって接収・横領され、上海の国際市場で競売にかけられるに到り、台湾の物価は高騰、インフレによって企業の倒産が相次ぎ、失業も深刻化した。
比較的不正の少なかった日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗は到底受け入れがたいものであった。人々の不満は、いやが上にも高まっていった。 当時の台湾人たちは「犬去りて、豚来たる」(犬(日本人)は五月蠅くとも役に立つが、豚(国民党)はただ貪り食うのみ)と揶揄した。
経緯
この事件をきっかけに、国民党政府への怒りが遂に爆発した。翌28日には抗議のデモ隊が市庁舎へ大挙して押しかけた。しかし、政府側は強硬姿勢を崩さず、憲兵隊は市庁舎の屋上に機関銃を据えて、非武装のデモ隊へ向けて無差別に掃射を行う。多くの市民が殺害され、傷を負った。
これが発端となって、政府関連の諸施設への抗議行動や、日本語を解しない外省人に対する魔女狩り的な襲撃事件が台湾全島で頻発した。本省人側はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」との放送も行っている。
劣勢を悟った国民党政府の長官府は、一時本省人側に対して対話の姿勢を示した。しかし、台湾行政長官兼警備総司令・陳儀は、大陸の国民党政府に密かに援軍を要請した。彼は「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を蒋介石に送っている。
蒋介石は陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし、翌月、第21師団と憲兵隊を大陸から派遣して大弾圧を開始した。この際、裁判官・医師・役人をはじめ日本統治下で高等教育を受けたエリート層の多数が逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害された。また、国民党軍は一般市民にも無差別的な発砲を行っている(証言も多数あり)。本省人の中には戦地帰りの者が日本の軍服を着て戦闘を仕掛けたという記録も残っている。基隆では街頭にて検問所を設け、市民に対し、北京語を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を本省人の手に刺し込んで縛って束ね、「粽(チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだという。
この事件によって、約28,000人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言われている。正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。
事件の際発令された戒厳令は40年後の1987年まで継続し、表向きは事件が収束したように見えた後も白色テロと呼ばれる恐怖政治が永らく続いてきた。国民党が戒厳令を解除した後も、国家安全法によって言論の自由が制限されていた。今日の台湾に近い形の「民主化」が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことである。
 二・二八事件について、私の台湾の知人から生の話を聞いている。当時中学生であったAは、病気で学校に行かなかった。その日、級友は誰かに連れて行かれ行方不明になった。恐らく殺されたのであろう。Aも学校に行っておれば、彼の運命もどうなっていたかわからない。当時、それから後の白色テロの恐ろしさは言葉では尽せないほどであった。特に日本語が良く出来る優秀な若者本省人が弾圧の対象であった。夜中にドアが壊され、どこともなく連れ去られることが多くあった。当時の優秀な本省人の若者は政治活動をするより、学問や経済活動に集中した。台湾の現在の経済の発達は彼らの奮闘による。又日本統治下で一番充実していたのが大学の医学部であった。台湾は元々マラリヤや亜熱帯気候特有の風土病が発生し、人間の住むには過酷な土地であった。その土地に人間が安楽に住めるようにしたのは日本であり、日本が最初に力を入れたのが医学であった。その名残か日本には台湾出身の医者が2000人以上いるという。アメリカでも私のホームドクターは台湾の人である。
  日本のよき文化をなおももっているのは台湾の人である。我々日本人が忘れてしまった、人情とか誠実とか、そのような徳目をしっかりもっておられる。Aによれば、それを教えてくれたのは日本人であったと。Aだけでなく高潔な人格の台湾の人と、ここロスでよく会う。許世氏もその一人である。ロスで感じることだが、本省人と外省人と本質的に人間が違うということだ。蒋介石は日本が無条件降伏した後、ソ連の北海道割譲や、連合国の分割統治に反対してくれたとか、「怨みに報いるに徳を持ってす」というような立派な言葉でもって日本に同情してくれたというようなことで、蒋介石を日本の恩人と考える傾向がある。私も以前そう思っていた。台湾事情を見ていくと、外省人は力でもって統治する伝統を持った人間であることがよくわかる。胡錦濤は妥協しないので中国のトップになったように、国民党の蒋介石だって妥協しなかった。そのような大陸的気質を蒋介石、それに今の国民党の体質に見るべきである。その点、香港出身の馬英九は中国接近という妥協によって、きっと中国の龍に飲まれてしまうであろう。飲まれそうになる小国台湾を温かく見守り助けていくのが今後の日本の課題である。日本も中国に比べれば小国であり、日本の政治の動きが中国への妥協、妥協に追いやられている。経済的に台湾も日本も中国なくしてやって行けない状態になっている。そのような時代になって、中国はなおも絶対に妥協しない。妥協しなくてもやっていける国柄なのである。7000万人の共産党員独裁の国。自国の国民が飢えようが死のうがどうでもよい国柄なのである。四川地震で温家宝首相や胡錦濤が現地に素早く飛び、陣頭指揮をとっていたが、これは国際社会へのポーズにすぎない。北京オリンピックで平和の祭典を実現したが、逆に独裁国家を露呈したことになった。北朝鮮のマスゲームを巨大にしたにすぎなかった。
   中国が豊かになることはそれだけ世界に脅威を与える度合いが多くなることになる。中国をナチ、ヒトラーと同等に考えればよい。なぜなら人権を無視する国だからである。ベルリン・オリンピックの成功は世界制覇の前触れであった。当時ヨーロッパは経済的にドイツ抜きに成り立たなくなっていた。だからイギリス首相チェンバレーは妥協したではないか。その後の歴史は知れたこと。中国の台頭は危機であると、大陸人蒋介石の脅威を身に染みて感じた本省人の警告に耳を傾ける必要がある。日本の国を本当に愛し、理解し、協力してくれる仲間は台湾の本省人であることを、最後に強調しておく。
半田俊夫のコメント
講演会に同席していた半田俊夫(日本再生研究会会員)からの、コメント。
内藤さん
許氏の講演の要約報告ご苦労様でした。 労作に敬意を表します。

要約最後の2行: 私もこの20年当地南加や台湾の本省人の人々と交際を深めてきて、台湾にも数度友人を訪れ、本を読み勉強をして来た身としてここに同感し日本人の友人にも同じく強調している所です。

許さんの当地の第一回講演は私が司会を頼まれその縁で許ご夫妻とは交流ができて日本でも訪問し論文も幾つか読ませて頂き勉強になりました。 
許さんが若い日本留学時に反国民党運動で本国政府から睨まれてパスポートを没収され危うく本国送還される所を危機一髪助かったもののその後の滞日生活はご夫妻にとり経済的にも精神的にもあらゆる意味で長い困難そのもののだったのが、あの様な温厚な気品ある容貌と人間性をかもし出すのは実に凄いことです。

さて貴労作の価値には影響しませんが気付いた個別の幾つか細かい点について正確性の意味で補足追記します。

1) 馬英九に 「 熱烈青年はどこに行った」という批判が出たという事に関連して、馬は若く米国留学時及び今回の漁船事故の際にも一度「日本と一戦も辞さず」と発言しています。 昔からそう言っているのを知られているので「熱烈青年はどこへ行った」と言われます。 馬の卒論は「尖閣列島」だった由。 一般的には反日と目されていますが先般の総統選挙前後から日本にも一定の配慮ある姿勢を示そうとし始めていると言えます。

2) 日本の「遺憾」謝罪に関連して漢語の国別の差異の所ですが、 「愛人」が夫や妻、つまり伴侶を言うのは大陸中国の方です。 大陸では日本で言う愛人は情人を使います。 台湾では大陸の使い方を知っていますが夫や妻を愛人とは言わず先生とか太太とか別の言葉や名前そのものを使います。

3) 新駐日代表のこれまでの主な経歴は中南米専門家でした。
彼は許前代表と異なり日本の政官界人に対し日本語で語れないので通訳が付く訳で果たしてどれだけ正確なコミュニケーションが出来るのか許氏の懸念でもあります。

4) 米の対台武器輸出中止に関連し、馬新総統が中止させたのは大陸に届く地対地、長距離ミサイルの開発の方です。
大陸が九州と同じサイズの小国台湾に対し現在実に約1,000基もの弾道ミサイルの照準を合わせている時に対抗となる自国の長距離ミサイル開発を中止させるとは国防上何とも不可解な行動で大陸におもねる姿勢と言われても仕方ないのではないか。

台湾は短距離迎撃ミサイルつまり地対空ミサイルは米国から(日本と同じ)パトリオットミサイルが装備進行しています。 
F16についてはどうなるか微妙ですが台湾は既に欧州製の同等機種と国産機種を取得中です。

5) 胡耀邦は未だに軟禁中です。 中国で歴史的に封殺されている天安門事件が将来歴史再評価される時代が来るまで(いつ来るか果たして来るか誰にも分からないが)胡耀邦は許されず再評価されないと見られます。

6) 2.28事件については、私が台湾随一と敬意を持つ映画監督、侯 孝賢が89年に製作し台湾で大反響を呼び、ベネチア映画祭でグランプリを受賞したニ・ニ八を扱った名作映画「非情城市」が探せば日系ビデオ屋で日本字幕付きで見れる筈なので一見を強くお奨めします。 日本や日本人も描かれています。 叙事詩的な作風ですが見終わって胸が締め付けられる様な抒情感を得ます。

この映画の製作時期はまだ87年の戒厳令解除直後の時期だったので、それまで2.28事件に触れる事は禁止されていたし戒厳令解除語もタブー視されていたので、制作の情報は世間に知られていたが完成しても国民党がすぐ発禁にして監督はぶち込まれると危惧、予想されていて緊張を持って見守られていました。

しかし検閲通過しノーカットで上映され台湾で大反響と興奮を生み、それ以降台湾内で2.28事件に触れる事や研究がおおっぴらに進むようになったのです。 制作時は病にあった蒋経国の末期で時代が変りつつある時期でした。 映画完成時は没した蒋の後継として李登輝さんが初の台湾人総統として既に就任しており民主化が胎動していました。 非合法だった第2政党の民進党が許可され小さいながらもおおっぴらに街頭活動を始めていた時期でもあります。 映画は日本でも公開され深く日本人の琴線に触れ大きな評判を呼びました。

なお候監督には他に「トントンの夏休み」、「童年往時、、、時の流れ」、「恋恋風塵」など日本人が見たら郷愁でたまらなくなる台湾作品が多々あります。 候監督は小津安二郎を敬愛している映画人です。

「南京の真実」 第一部 7人の「死刑囚」

映画「南京の真実」第一部  7人の「死刑囚」
担当: 内藤喬生

先日、10月14日、映画「南京の真実」を観た。試写会であり、この映画の監督水島総氏も日本からやってきて、映画上映後の質疑応答に答えていた。週日の午後2時開演ということもあって、少ない観客であった。主催者はアメリカのジャーナリストが来てくれることを望んでいたのであろうが、一般日系人そして日系のジャーナリスト、それにほんの一握りのアメリカ人しか来場者がなかった。確かなことはわからないが、ひょっとして、中国系ジャーナリストも来ていたのかもしれない。
 映画の内容であるが、A級戦犯東条を含む7人の処刑までの24時間を克明に描いていた。最初の場面で、広島長崎の原爆、そして南京陥落、それ以降の南京城内の映像が流れていた。ある映像は、プロパガンダ用に作られたものであろう。場面は南京城内、陸軍部隊の前、中国の子供たちが爆竹を鳴らして楽しんでいる。恐らく撮影班が爆竹を子供たちに渡して、「やってごらん」と指示を与えたのだろう。子供たちは無邪気な表情で楽しんでいる。もし大虐殺があったとするなら、子供たちは日本軍の側にも寄らないし。あのような朗らかな表情などできない。この映像はやらせの要素は確かにあるが、子どもの心までやらせてはいない。
  映画全体の構成は能舞台の影絵から現実の7人の人間性を浮きあがらせている。能のことはよくわからないが、能とは死者の霊が語りかけてくるという筋が多いと聞く。7人の志半ばであの世に行ったといわれる人物の能面をかぶり、能師が謡曲にあわせて舞う。7人の死霊があの世から語りかけているのである。この能面の顔つきは我々がよく見る、美しい女性でも鬼でもない。どうもよく知られた能面らしい。私には非常に新鮮な表情に見えた。どこか個性の強い暴走族のお兄ちゃんのようにも見えるし、昔あのような顔のおっちゃんが田舎にはいたようにも思った。現代風であり、また現代人にはあのような顔はないと思ったりして、私は水島氏の創作面だと思ったぐらいである。
 戒教師花山信勝に7人が遺言を残す。それぞれ俳優が映じているのであるが、よくも死に行く人間の心を表現できたものだと感心した。それも、戦前の指導者である、家族の行く末を心配する者もいるが、日本の未来を憂い、しかも威厳を持って死地に臨む人間を感情移入して演じていた。これは驚きであると同時に、俳優たちの精神の高さを物語っていると思った。そうでなければ、あれほど真実に迫る演技はできないであろう。土肥原であったか板垣を演じた俳優であったか忘れたが、撮影中、家に帰ってもその役になりきっていたと彼の奥さんが語ったという。ただ私の関心事は、殆どの人間が南無阿弥陀の世界に安住の心を求めていたことである。一人は南無妙法蓮華経の人がいた。広田弘毅だけが禅の世界である。彼は文人として一人処刑されたのであるが、裁判では一切語らず、他の6人とは異質な感じであった。それを寺田農が上手く演じていた。万歳(ばんざい)を「漫才(まんざい)しましょうか」と言ってみたり、彼の死生観は他の人間と違っているように見受けた。
  実は水島氏を囲んで夕食をしたのであるが、映画作りの裏話をいくらか伺った。広田弘毅は落下の時瞬時に首を曲げたため、頚動脈を切り、本当は血が相当噴出していたとか。7人の処刑の場面は赤々と照らし出された照明の下撮影されたという。もしそうだとするなら、全てのシーンが記録されているはずである。ところが、それがあるかさえ今のところ分かっていないという。
  東京裁判で被告側弁護人ブレークニーが、弁護するシーンがこの映画で登場している。この映像入手の苦労話を水島氏から聞いた。ある図書館にそれがあることを突きとめ、スタッフ(彼自身だったかな)をアメリカに派遣して4度目でようやくこの場面の映像を取り入れることが出来たと。情報公開を原則にしているアメリカでも、アメリカに不利益になる資料はなるべく渡したくないのだろう。
 この映画をアメリカ人が見た場合どういう感想を持つかというまえに、まず見ない、見たくないであろう。最初に登場する広島長崎の原爆のシーンは一番見たくないものである。一般アメリカ人は現実を見たくない人種である。太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争と実際に兵隊として行った人は戦争の現実をみているが、一般アメリカ人は対岸で起きたこととしてしか感じることが出来ないのである。いつの時代もアメリカ人は夢を見ている。ホームレスになって、死を迎えるようになってはじめて現実を知るのである。この夢を現世的夢と名づける。今がよければよいという夢なのだ。今アメリカは経済危機を迎えようとしている。しかし、現実的生活にまだ破綻が生じているわけでなく、ワールドシリーズに興奮し、大統領選挙戦をアカデミー賞の行方を眺めている程度に見ている。
 だから、この映画をアメリカで上映する意義がないかといえばそうではない。たとえ少なくとも、アメリカの少数の人の目に焼きつかせることは意味がある。支那中共は延べ300億円以上の金をつぎ込み。世界各国で10本以上の南京の映画を作らせた。日本は政府の援助がない。水島氏だけの映画である。水島氏も言っていたが、「ゼロと一の違いは大きい」。大虐殺どころか殺人事件さえ数件しか起きていない南京事件がこれほど世界に広がったのは、中共の情報宣伝工作以外のなにものでもない。映画のパンフレットの監督の言葉を借用すると、中共の情報宣伝工作の目的は3つ挙げられる。①「南京大虐殺」という歴史的捏造によって、中国共産党政権が成立以来繰り返して来た自国民に対する「大虐殺」を隠蔽すること。②戦争準備。内部の矛盾を外部に転嫁しようとする準備が「南京大虐殺」キャンペーンである。中国国民に憎悪の対象たる「敵」を設定し、非道な一党独裁体制への人民の怒りを日本に向けさせようとしている。③日本に対して常に精神的優位に立つための決定的「歴史カード」の設定である。従軍慰安婦や遺棄兵器問題等に対する日本政府と日本国民のあやふやで腑抜けた臆病な対応を見て、70年前の架空の出来事でも、充分、金や技術が我が国から奪えると理解しているのである。
  中共の宣伝工作は実に巧妙である。孫子の兵法ではないが、まず敵を知ることである。水島氏も言っていたが、中共のトップは優秀である。水島さんの周りには中共の優秀な人間が集まってきて本音で議論をしてくるという。ただ同僚が来ると建前論理にスイッチするという。ソ連崩壊後中国はなぜソ連が崩壊したかを充分研究した。そしてその結論が「妥協しないこと」となった。少数民族弾圧、「南京大虐殺」もあったかどうかの歴史的検証などどうでもよい、「間違いなくあったのである」という演繹論法を突っ走ることである。中国共産党で出世したければ、妥協のないこの演繹論法を完全にマスターすることである。ただ、帰納法を重要視する日本民族の代表の水島氏に近づき、その論法の何たるかを観察し、それを超える演繹法を磨きあげることが必要になる。
  すなわち、「中国共産党は偉大なる毛沢東革命により、中国を統一し、封建的領主によって奴隷として虐げられていた少数民族を漢民族という優秀な民族によって同化してやり、世界の虐げられた人々の解放のために中国は飛躍していった。経済的発展には少し難があったが、鄧小平同志によって解放経済が導入され、今や日本帝国主義を追い越し、アジアのトップに立とうとしている。それだけ世界の平和に貢献する義務が生じてきたのである。そういう意味でも日帝の過去に行なった中国侵略はいつまでも糾弾しなければならないし、特に南京大虐殺はアウシュビッツのユダヤ人大虐殺、広島長崎の原爆投下と同じように、世界遺産に登録し人類の不幸な歴史をしっかりと刻む必要がある。そして、今後、中国は物質、精神両面でおいて世界の平和に貢献していかなければならない。だからそれを阻害するどのようなことも断固妥協なく阻止していかなければならない。」とするのである。
  最後にブレークニー氏の東京裁判における彼の真正面からの問いかけを載せる。
 
 「国家の行為である戦争の個人責任を問うことは、法律的に誤りである。なぜならば、国際法は国家に対して適用されるのであって、個人に対しては無い。個人による戦争行為という新しい犯罪をこの法廷が裁くのは誤りである。戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪では無い。戦争は合的だからです。つまり合法的な人殺しなのです。殺人行為の正当化です。たとえ嫌悪すべき行為でも、犯罪としての責任は問われなかったのです。キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪ならば、我々はヒロシマに原爆を投下した者の名前を挙げることが出来る。投下を計画した参謀長の名前も承知している。その国の元首の名前も、我々は承知している。彼らは殺人罪を意識していたか。していまい。我々もそう思う。それは彼等の戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科で、いかなる証拠で、戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる!この投下を計画し、その実行を命じ、黙認した者がいる!その人たちが裁いているのだ!」

田中正明著 パール判事の日本無罪論

田中 正明 著
パール判事の日本無罪論、小学館文庫、2001刊、253pp.
担当者: 目良浩一

第二次世界大戦直後に行なわれた日本の戦争犯罪者を裁く「東京裁判」において、11人の判事の中で、インド政府派遣のパール(Radhabinod Pal)判事だけが、被告全員の無罪の判決を下した。GHQ総司令官MacArthur元帥からの相当の圧力があったと思われるにもかかわらず、このような判決を下したことは注目されるべきであるが、この判決文は講和条約が調印されるまでは、公表されなかった。この本は田中正明氏が日本が主権を回復した1952年4月28日に発刊した「真理の裁き・パール日本無罪論」を基にして、1963年に刊行された「パール博士の日本無罪論」を2001年に文庫本としたものである。ただし、内容はパール判事の判決文をしばしば引用しながら、著者の意見を述べたものであると解釈する方か良いであろう。

判事の判決要約:「われわれは、国際法上の適切な諸法規を適用して、被告らの行為が、果たして犯罪を構成するかどうかを判定すればいいのである。裁判所条例を別個のものとして、国際法から除外して考えよとする見解には同意するわけには行かない。」「このような裁判を行えということは、それ自身本裁判所は、司法裁判所ではなくして、たんなる権力の表示のための“道具”であることを証明するものである。」「いかに戦勝国といえども、かかる裁判を施行するための、法律を確定する立法の権限は、国際法も、文明国も認めていない。」「これこそ復讐の欲望を満たすために、法律的手続きを踏んでいるような ふり をするものだ。」p.60

東京裁判の法的根拠:連合軍が戦後にこのために設定した「極東国際軍事裁判所条例」(Charter)によるもので、国際法によるものではない。この条例は1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾した後に、米、英、仏、ソの四カ国が戦争犯罪に関する会議を開き、ニュールンベルグ裁判の条例を決め、マッカーサーがそれに習って東京裁判条例をつくったのである。これは法の不遡及という法の根本原則に悖る。

三種の訴因:
第一種 平和に対する罪
第二種 殺人の罪
第三種 通例の戦争犯罪および人道に対する罪
このうち、第一種 が侵略戦争を共同謀議し、計画し、実施した罪であり、この罪を犯したとされる者がA級戦犯である。東京裁判ではA級戦犯が主に裁かれた。

第一種訴因の妥当性:
戦争を起こすことは国際法では犯罪とは認められていない。第三種の戦争犯罪は国際法に認められているが、それは非戦闘員の殺戮などを意味するものである。当時の国際法では戦争を起こすこと自体は、それが侵略であろうと自衛のものであろうと、主権国家の権利とみなされ、犯罪であるとはどこにも規定されていない。従って、パール判事は、第一種訴因は妥当でないとした。

戦争責任は個人の責任か:
「こっかの主権が依然として国際関係の根本的基礎である限り、こっかの憲法を運用するあたってなされた諸行為は、依然として国際法上においては、裁判をうけるべきものではなく、かような資格で職務を遂行した個人は、依然として国際法の圏外におかれる」

全面的共同謀議:
A 級戦犯の主な訴因は、彼らが満州事変から太平洋戦争にいたるまで、共同謀議をして、侵略戦争を始めたとすることである。パール判事は「検察側が訴追し、かつ描写しようとした共同謀議なるものは、かって司法裁判所において論述せんと試みられたもっとも奇異にしてかつ信ずべからずものの一つである。すくなくとも最近十四年間にわたる、相互に独立した関連のない諸事件が、寄せ集められ、並べられているにすぎないのである。」「かくのごとく、無数の寄せ集められた諸事実をつなぎ合わせて、共同謀議というならば、世界のあらゆる主要国家の政治家を、彼自身意図しなかった“侵略戦争”を準備し、かつ挑発したものとして断罪することが出来るであろう」として、この訴因を排斥している。

その他の裁判上の問題点:
o 戦勝国の者は裁かれなかった
o 日本の太平洋戦争以前の行動も裁判の対象となった
o ソ連の満州に対する野心は問題にされなかった
o 1931年以前の西洋列強のアジアにおける領土的野心は対象外となった
o 通例の戦争犯罪について、米国の日本の都市の空爆、焼夷弾作戦、原爆投下、ソ連の終戦時とその後の満州における略奪や日本人の拘束、強制労働などは除外された
o 米国は蒋介石政権を支援することにより、中立維持の義務に違反し、戦争の当事者になっていた
o 1938年7月から始まった米国政府の、日本政府に対する経済的な抑圧策は、段々と強化し、イギリス、オランダ、オーストラリアも参加し、1941年には石油禁輸にまで至った。それによって、米国政府は日本が開戦することを予想していたが、この点は共同謀議とされていない

Beard 著 President Roosevelt and the Coming of the War, 1941

日本再生研究会 著書の解説 1


Charles A. Beard (チャールス A. ベアード) 著
President Roosevelt and the Coming of the War, 1941
Transaction Publishers, 2003 (Originally Yale University Press, 1948)
担当:目良浩一


まえがき

ルーズベルト大統領の太平洋戦争への陰謀説は広く伝えられている。彼は、第二次世界大戦に参加する方法として、日本を窮地に追い込み、米英側に攻撃するように図ったとするものである。このような説を唱えるのは、単にBeard だけではなく、参考文献に示す Tansill, Russett, Heinrichs などの著書もあるが、Beardの著作が、もっとも良く知られている。

しかし、ルーズベルト大統領は、世界恐慌の時期から第二次世界大戦の時期までアメリカの指導者として、アメリカを恐慌から救い、ナチや日本などの軍国主義を倒し、アメリカの世界における指導的地位を確立した大統領であるので、アメリカ人の中で彼を非難するものは殆どいない。

ただし、Beard のこの著書は、極めて強い説得力を持っている。全体として、ルーズベルトは、抽象的発言が多く、物的証拠を残さないように行動をしていたようで、彼の考えが何処にあったかについては、極めて捕らえ難い状況にあったのだが、彼の周辺の人々の日記などから、陰謀説を否定することが出来ないほどの説得力のある議論を展開している。

著者の紹介

Beard (1874-1948) は、20世紀前半の米国で最も尊敬されていた歴史家の一人であった。彼は、米国の最初の植民者が、思想的な観点からよりも経済的な理由で移住してきたとする説を発表して、著名になった。更に、彼は、南北戦争も、経済的な利害の対立から起こったとする説を発表した。彼は、ルーズベルトのNew Deal 政策の熱烈な支持者であったが、アメリカの孤立主義を信奉していた。従って、米国の世界大戦参加には反対していた。この著書は、ルーズベルトの外交政策への痛烈な批判である。

著書の主旨

ルーズベルト大統領は、1940年に三選を達成した後、ドイツとの戦争に加わろうとしたが、それがならず、日本をそそのかすことによって、第二次世界大戦に参加することが出来た。その過程では、国民を欺くような行為があり、また戦争宣言の権利は議会にあるにあるにも拘わらず、彼は戦争を引き起こしたので、彼は米国憲法に違反する行為を行なった。

2003年版への序文

この2003 年版には、Campbell Craig の序文が付いているが、彼はルーズベルトはアメリカの英雄であり、ナチスドイツと軍国日本を打倒し、戦後世界を指導する国を作った人であるから、Beard の言うような理由で非難することは出来ないとしている。陰謀があったこと自体は認めるが、Beardの信奉していた米国の孤立主義は到底擁護できないので、問題は、彼の決定が基本的に正しかったかどうかが問題なのであるとしている。

著書の概要

著書は三部から構成され、第一部 外観、第二部 事実の発覚、第三部 真珠湾書類の示すもの となっていて、同じ事実を三度 検証するかたちとなっている。
長さは614ページ。

第一部 外観
1940 年末に三選されたルーズベルト大統領は、1939 年にヨーロッパで起こった戦争にアメリカを参加させないという公約と掲げて、それを実行する道徳的責任を持って、1941 年を迎えた。具体的には、彼は次のように声明した
“We will not participate on foreign wars, and we will not send our Army, naval, or air forces to fight in foreign lands outside of the Americas, except in case of attack…..The direction and aim of our foreign policy has been, and will continue to be, the security and defense of our own land and the maintenance of its peace.”
戦争に参加しないという公約は、共和党の候補者からも表明された。
1941 年1月に 大統領は議会に、ヨーロッパの連合国に、武器、弾薬、戦闘用具を貸与(Lend-lease)する計画を発表した。国際法では、一国がある戦争中の特定国に武器などを供与すれば、それは戦争行為であると解釈される。しかし、米国はこの国際法の適用に強く抗議していた。1月10日に提出された Lend-Lease Bill は、大統領だけで武器などの供給先と決め、支払い方法についてもすべて、独断で決定できるものであった。この法案は、いくらかの修正を受けた後、3月12日に議会を通過した。しかし、武器を、例えば、英国に輸送する際に、米国海軍の軍艦が護送 (convoy) するとなると、ドイツの潜水艦に襲撃されて、戦争に巻き込まれる恐れがあることで、この法案から「護送」は削除された。法案成立後も、この議論が続いたが、ルーズベルトは、護送(convey) ではなくて、監視(patrol) であると言って、逃れた。

1941 年8月14日、ホワイトハウスは、ルーズベルト大統領と英国首相ウィンストン・チャーチルが大西洋で会見し、その会見内容と、そこで合意された大西洋憲章を発表した。発表によれば、会見内容は、ヒットラーの支配するドイツとそれに賛同する国々が世界文明にもたらす危険性を考慮し、それぞれの国が取っている対策について、意見の交換をした。大西洋憲章では、以下の原則を宣言した。
1.両国ともに、領土などの拡大を求めない
2.居住民の自由意志に基づかない領土の変更はしない
3.政府の形体は、居住民が選ぶべきで、その権利が奪われている場合には、それが回復されるべきである
4.経済の発展に必要な通商や原材料への取得はすべての国に保証されるべきである
5.すべての国は協力して、生活水準の向上を目指すべきである。
6.ナチスドイツの崩壊後には、すべての人が恐怖や飢餓から解放されることを望む
7.そのような平和な状況の下では、すべての人は自由に航海できる
8.すべての国は、武器を放棄し、安全が保証される恒久的体制の下で活動するようになることを望む

この会見について質問されたルーズベルト大統領は、そこでは新しい約束は何もしなかったと言明した。

その後、アメリカの軍艦は、ドイツとの交戦状態になりかけた事件があった。9月4日、米国駆逐艦 Greer がIcelandに行く途中、ドイツの潜水艦らしきものに攻撃された。Greer はそれに応戦した。ドイツ側は、Greer の方から攻撃してきたと抗議した。この件は、ルーズベルトのドイツへの警告で終了した。10月17日、海軍省はU.S.S. Kearny が魚雷攻撃を受けたと発表した。大統領は10月27日に「アメリカは攻撃された」とする演説をした。しかし、直ちに上院の海軍委員会が調査した結果、Kearny は攻撃を受けたときには、すでに交戦状態であったことが判明した。従って、この事件は宣戦布告にはつながらならなかった。

それまでは、アメリカの指導者はヨーロッパの戦争に注目し、日本を戦争の対象とは考えていなかった。しかし、日本は1940 年9月27日に三国同盟を結び、ドイツとイタリアと結合した。多くのアメリカ人は、日本との問題は、アメリカが強く出ることによって解決できると考えていた。1941 年7月25日、大統領は米国内の日本の資産を凍結した。彼は、それは単に米国内の資産が、アメリカの国益に逆らうように使われるのを防ぐためであると説明した。その前日、24日には、大統領は、日本は石油の輸入が止まると、オランダの東インドに出てゆくと声明しているので、彼は、日本の外国への進出を誘ったのかもしれない。8月初旬には、日本がABCDに包囲されているの情報が、出回った。大統領は、8月の大西洋会議で、日本についてどのような議論をしたか全く説明しなかった。しかし、チャーチル首相は8月24日に、米国の日本との関係がこじれてくれば、英国は躊躇せずに、米国の側につくと声明した。

8月29日に野村大使は大統領に、近衛首相からの親書を手渡した。大統領は返答をすると声明したが、その時期や内容については明らかにしなかった。大統領からの回答がない中、近衛内閣は10月16日に倒れた。国務長官ハルは、11月22日に英国、中国、オーストラリア、オランダの代表と協議をした。日本との協議には、前進はなかった。11月26日に、ハルは野村大使に、後にハル・メモとして知られことになった書類を渡した。11月29日大統領は、短い声明を発表し、その中で近く戦争が起こるかもしれないことを示唆した。12月6日の夕方に、大統領は、天皇に当てて平和を守るよう電信を発信した。

1941 年12月7日、日本軍が真珠湾の米国海軍を攻撃した。12月8日には、ルーズベルト大統領は、「昨日、12月7日に、その日の汚名は長く残るでしょうが、米国は突然、また計画的に日本帝国の海軍と空軍に攻撃された。」と声明した。12月18日には、大統領は、5人からなる委員会を任命し、ハワイの指揮官の責任を追及することを命じた。ロバート委員会と言う。

第二部 事実の発覚
日本の真珠湾攻撃はSurprise Offensive であったかどうか? 米国は、12月7日の攻撃が、平和のための協議をするという口実で交渉を続けていた最中に起こったので、ル大統領は、それは米国を欺いた計画的攻撃であったと声明した。しかし、何人かの米国政府高官はその前に危険が近づいているということを言っていた。

米国議会の真珠湾に関する合同委員会は、1942 年1月24日に以下の調査結果を発表をした。アメリカの現地{ハワイ}の司令官は11月27日までには、警戒するように告げられていた。また、チャーチル首相は、1942 年1月27日に8月の大西洋会議で、日本の件は議論された、そして、ルーズベルトは、戦争になれば、アメリカは英国を助けることを約束した。また、Davis & Lindley の著書によれば、ルーズベルトはチャーチルに、「日本との戦争は3ヶ月くらいは延ばせるよ」と言ったとされている。また、国務省が1943 年1月に発表した Peace and War: United States Foreign Policy, 1939-1941には、国務長官のハルは、1941 年11月29日に「日本との外交交渉は殆ど終了した、この件は陸軍と海軍の士官にまわされるよ」と英国大使に告げたとされている。

1945 年8月29日には、陸軍と海軍の報告書が公開された。これらの報告書では、マーシャル元帥や国務長官ハルなどが責任者であるとしている。これらを根拠として、New York Daily News (August 31, 1945) は、ルーズベルトが、計画し、我々を戦争に送り込んだのだとする記事を掲載した。

大統領が真珠湾における米軍の失敗の責任の所在を明らかにするために任命した Roberts Commission は、現地の司令官に責任があるとの結論を出した。その結論に、議会は疑問を持ち、1944 年6月13日に、両院が決議して、真珠湾の件について調査することになった。両議会は上院と下院からそれぞれ5人ずつ、6名の民主党議員と4名の共和党議員で構成され、1946 年7月29日に報告書を完成した。民主党員に一人の共和党員が加わった多数意見と残りの共和党議員がまとめた、小数意見の二つの結論が提出された。それらの結論は以下の通りである。

多数意見:政府高官には、何の手落ちもなかった。ハワイの両司令官は判断を誤ったが、任務の怠慢ではなかった。
少数意見:大統領と戦闘閣議(War Cabinet) は、ハワイの司令官に警告情報を伝達することをしなかった責任がある。ハワイの防衛のために、それを警戒する十分な情報がありながら、伝達しなかった責任は下記の者にある。
FDR, President; Henry L. Stimson, Secretary of War; Frank Knox, Secretary of Navy; George C. Marshall, General, Chief of Staff of the Army; Harold R. Stark, Admiral, Chief of Naval Operations; Leonard T. Gerow, Major General, Assistant Chief of Staff of War Pans Division; and Commanders in Hawaii, Short & Kimmel. Cordell Hull not responsible.
この結論は、以下の根拠により支持されている。
1)日本政府からワシントンの大使宛の電報は、海軍の情報機関に12月7日の午前4:37に受信され、その翻訳文は9時には出来ていて、マーシャル元帥の所に11時半には配達されていた。午後1時の攻撃開始時間にはまだ余裕があったにも拘わらず、元帥は現地の司令官に情報を伝えなかった。
2)大統領が任命したRoberts Commission は、MAGIC{日本からワシントンの大使館との交信の傍受、解読と翻訳} の情報なしに報告書を作成した。ハワイの司令官Short 大将と Kimmel 提督 に責任を押し付けるのが、この委員会の使命であったと思われる。

ルーズベルト大統領は1937か1938年頃に、国のためには、戦争を避けられないと考え始め、どうやってアメリカ国民に、戦争をしなければならないと説得するかと言う問題に取り組んできたと思われる。Franklin D. Roosevelt: An Informal Biography の著者の Alden Hatch によると、大統領が戦争をしなければならないと決心したのは、ヒットラーとスターリンが条約を結んだ 1939 年8月23日から2・3週間のうちであると言う答えが圧倒的に多かったとしている。例えば、Kimmel の前に太平洋艦隊の司令官だった Admiral James O. Richardson
は、1945 年11月の議会の真珠湾委員会で、彼が1940 年10月に大統領に直接に会見したところでは、大統領は確かに日本との戦争を想定していたと述べた。
当時、戦事省の長官であったHenry L. Stimson の1941 年の日記には、以下のような記述がある。
11月6日:大統領は日本と6ヶ月の休戦を提案したが、Stimson は反対した。
11月7日:大統領は、もし米国が太平洋の東南部で日本軍を攻撃したら、アメリカ国民はその政府を支援するかどうかについて、閣議の意見を聞いた。全閣僚は、政府を支持すると答えた。
11月25日:戦事閣僚会議(War Cabinet)で、大統領は次の月曜日の12月1日にも、アメリカは日本に攻撃されるらしい(U.S. is likely attacked by the Japanese as soon as next Monday)と発言した。そして、いかにして、われわれは大して被害を受けないようにして、彼らが最初の弾丸を発射するようにするにはどうすればよいかと言う問題が提起された (How we should maneuver them into the position of firing first shot without allowing too much danger to ourselves?)
11月26日(ハル・ノートが渡された日):国務長官ハルは、Stimson に伝えた「私はもう休戦の件について決心した。日本にはもう他に提案するものは何もないと伝えるよ。」
11月27日:ハルが日本との関係についてStimson に次のように言った。「私はもう手を洗った。これからは貴方と Knox , 即ち陸軍と海軍の扱う問題なんだよ (I have washed my hands of it and it is now in the hands of you and Knox – the Army and the Navy.)
12月7日:今ではすべての問題を、日本がハワイを直接攻撃することによって解決してくれた。私の最初の気分は、決断が出来ない問題はなくなって、国民がすべて団結する形で危機が来たという安心感である (Now the Japs have solved the whole thing by attacking us directly in Hawaii…My first felling was of relief that the indecision was over and that a crisis had come in a way which would unite all our people..)

1941 年1月から9月までのChief of Naval Operations, Admiral Harold R. Stark の手紙からも、海軍が戦闘に備えて、大西洋でも、太平洋でも、十分な警戒をしていたことがわかる。1月29日には、ワシントンで米英の陸海軍の合同会議が開催され、戦争計画が検討された。4月には、オランダも参加して、シンガポールで戦争計画が練られた。

1943 年7月に発行された国務省の Peace and War と称する公式記録によると、大西洋会議から帰還したばかりのルーズベルト大統領は、1941 年8月17日に日本の大使をホワイトハウスに呼び、次のように述べた。「米国政府は日本政府に次のように伝える必要がある。もし日本政府が隣国を武力か武力行使を背景とした脅迫で持って、軍事的制圧の政策や計画をこれ以上に行うならば、米国政府は直ちに米国とその国民の権利と利益を守り、米国の安全を確保するために、必要なすべての手段を直ちに取らざるを得なくなる。

その日に、野村大使は大統領に近衛首相が太平洋のどこかで大統領と会見したいことを伝えた。大統領と国務長官はこの申し出を検討すると応えて、その後で、会見の前に、会見の成功のために首相はある原則について事前に合意する必要があるとした。9月6日、首相は米国大使 Grew にアメリカの保持している4原則を支持すると伝えた。しかし、大統領と国務長官はそれでは十分ではない、他の条項も必要であるとして、承諾しなかった。しかし、何が必要であるかについては、明らかにしなかった。Grew は、9月29日に日本は問題を外交交渉で解決する機運にあるので、ワシントンにこの機会を捉えて、決着するように迫った。そのうち、10月16日に近衛内閣が辞職し、東条英機が総理になった。東条は来栖特使を送り、AB案を提出するように指示した。この内容は大統領にMAGICによって、伝えられていた。A が却下され、Bが検討された。大統領は暫定協定を提案した模様であるが、ハルは、英国、オランダ、オーストラリア、中国政府と協議した後に、11月26日にあの有名なハル・メモを大使に渡した。
その前日、25日に、War Cabinet はホワイトハウスで会合を開き、例の発言があった、”The question was how we should maneuver them into the position of firing the first short without allowing too much danger to ourselves.” 27日に戦争警戒指令がハワイの Short 陸軍大将と Kimmel 海軍大将に送られた。12月6日午後9時30分、大統領は、東京から野村大使に送られた宣戦布告に関する電信の翻訳版を受け取ったが、現地司令官に警告を与えることはしなかった。

8月17日のル大統領の日本への警告では、日米間の和平の条件として、日本軍の中国やインドシナからの撤退は含まれていなかった。11月20日に討議された日本のB案では、「それ以上の軍事的制圧について」は日本側は交渉によって決めることを提案していた。しかし、11月26日のハル・メモでは、日本軍が中国とインドシナから完全撤退し、中国では、蒋介石政権しか認めないことを強く要求している。明らかな米側の要求の硬化である。それによって、日本側は、奇襲攻撃を実行することを決定した。

ル大統領は、このような米国軍隊が攻撃を受けたという事実を作り上げて、議会に宣戦布告を要求したのである。このような事態になれば、議会としては、選択の余地がなくなる。Beard は、このような、大統領の権力の事実上の拡大は、議会に宣戦布告の権限を与えた米国憲法に反すると大統領を攻撃した。

参考文献

Charles A. Beard, President Roosevelt and the Coming of the War, 1941 (original1948)
Charles C. Tansill, Back Door to War: The Roosevelt Foreign Policy 1933-1941 (1952)
Bruce M. Russett, No Clear and Present Danger: A Skeptical View of the United States Entry into World War II, Westview (originally 1972)
Waldo Heinrichs, Threshold of War: Franklin D. Roosevelt and American Entry into World War II, Oxford (1988)

読後感
1. 著者は、ルーズベルト大統領が、密かに戦争参加を計画し、参戦に成功した過程を、詳細に、信頼できる記録によって説得的に、記述している。ル大統領の陰謀説を疑うのは、困難であろう。
2. ドイツは、巧みにアメリカ軍が誘った攻撃の機会を避けて、米国を戦争に巻き込むことはしなかった。
3. 真珠湾事件の真相解明が、多次元で行われたことに注目すべきであろう。そして、解明の結果が、それぞれ異なった結論に落ち着いたことに注目すべきである。それらの委員会が如何に政治的な思惑に左右されたかが理解できる。
4. 著者は、英雄的な大統領を誹謗したとして、厳しい批判をうけ、出版後、間もなく失意うちに、死亡した。確かに、その後は、大統領の指導力は拡大している。それが好ましいかどうかについては、意見が分かれよう。
5. 陰謀説自体は、著者への非難にかかわらず、生き延びている。かなりの人は陰謀ではあったが、偉大な決定であったと思っているかもしれない。